特集・国公法弾圧事件の勝利を
3~6面で特集されています。一部を抜粋して紹介します。
「表現の自由」の大切さ
誰もが自由にビラを配り、政治や社会を旺盛に語りあえる社会であるために、いま勝たなければいけない闘いがあります。言論・表現の自由を確立させ市民のものにするために、国公法弾圧堀越事件と世田谷国公法弾圧事件の無罪判決を最高裁で勝ちとりましょう。
1945年に終戦を迎えるまで、日本は泥沼化した戦争の時代でした。貧困と物不足、そして空襲に怯(おび)える日々。この時代、国民は自由にものを言うことができませんでした。侵略戦争への反対、政府や天皇制に対する批判を口にしたり文字にすれば、たちまち特高警察によって逮捕されて拷問にかけられ、思想や考え方の「転向」を強要されました。天皇制政府は、国民総動員で戦争に突き進ませようと、国民の言論を封じ、思想の統制を図ったのです。
言論封殺のために作られた弾圧法規が治安維持法、出版法、新聞紙法などでした。治安維持法は、戦局が悪化するにしたがって改悪され、凄惨な拷問により命を落とす人も多数いました。しかし、そのなかでも平和と民主主義を求めて命を賭けて果敢にたたかった人びとがいました。
戦後、新しく制定された日本国憲法には、戦争の放棄(9条)や、言論・表現の自由(21条)をはじめとする様々な人権を守る条文が盛り込まれました。これは、暗黒時代への深い反省を経て国民が勝ちとった成果だったのです。
2004年、社会保険庁職員(当時)だった堀越明男さんは、休日に職場から離れた場所で、公務とは関係なく政党のビラを配りました。このことが国家公務員法違反とされ逮捕・起訴されました。当時、憲法改悪の動きが強まっており、堀越さんが配った日本共産党の「しんぶん赤旗」号外は、憲法9条の重要性を訴えるものでした。堀越さん自身も「憲法9条をどうしても守りたい」という気持ちでこのビラを配ったと思いを話しています。
同じく政党のビラを配って05年に国公法違反として起訴された、厚生労働省職員の宇治橋眞一さんも、「国の方向が右よりに動いている」と心配して、憲法改悪に反対する共産党の立場を訴えたビラを配りました。
両氏とも、日本を二度と「戦争をする国」にさせてはいけないという思い、そして国民の暮らしを守りたいという願いをビラにこめて配りました。
憲法はなぜ、言論・表現の自由を保障すると明記したのでしょうか。
戦後、民主主義の国となった日本は、主権者・国民が選挙を通じて自らの代表を選び、国民の意思で政治をすすめることができるようになりました。意思決定をするためには、様々な意見や考え方、情報が自由にやりとりされていることが必要です。国民が互いに意見を表明し討論することで、より真理に近づき、国がすすむべき方向が見えてくるのです。
言論活動の広がりは国の運営に直接かかわります。ゆえに憲法は、民主主義の基盤として言論・表現活動を保障しているのです。
言論封じる権力の狙い
自由な言論活動は、民主主義に不可欠です。
ところが、権力者たちにとっては、自らの政権運営に不都合な情報が、ビラや宣伝活動などによって国民に知れ渡り、反対運動が起こることは、悪政を進めるうえでの障害になります。そこで、様々な法律を口実に言論弾圧をしかけるのです。両氏が起訴された国家公務員法違反もその口実のひとつです。
アメリカ同時多発テロ(01年)以降、「対テロ戦争」の名のもとに、アメリカはアフガニスタンやイラクに軍事侵攻しました。日本もこれに追従しようと、自衛隊の海外派兵がおこなわれ、米軍艦船への給油活動や、兵の輸送などがおこなわれました。
こうした情勢のもと、国内では憲法9条の改悪を狙う勢力の動きが強まります。「戦争する国」にするためには、戦争遂行のための公務員の動員と、憲法改悪の国民投票の際に、公務員の反対運動を規制する必要があります。04年に起きた堀越事件は、公務員による運動を抑圧し萎(い)縮(しゅく)させ「物言わぬ公務員」を作るために、公安警察によって周到に準備された事件だったのです。
国公法事件は、その先に国民の言論統制を見据えておこされた権力の弾圧だったのです。
国公法は憲法違反だ
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
日本国憲法21条を読んでみると、一切の表現の自由が保障されるときっぱりと書いてあります。国家公務員も国民の一人ですし、私生活もあります。憲法に照らしてみれば、ビラを配ることは自由です。むしろ、国家公務員の政治活動をすべて禁止した国家公務員法と人事院規則こそ、憲法に違反した法令です。
しかし、2事件とも一、二審の裁判官は、国家公務員法は憲法に違反しないと判断しました(ただし堀越事件二審は、国公法を適用して処罰することは違憲として無罪)。37年前に最高裁が出した猿(さる)払(ふつ)事件の判決が、悪しき判例として機能しているからなのです。
67年に起きた猿払事件は、郵便局員が公営掲示板に選挙用ポスターを張ったことで国公法違反とされたものです。一、二審は国公法の規制が必要最小限の域を超えるもので違憲とし、無罪を言い渡しました。
しかし最高裁は、①法律の目的が正当で、②目的と制限される行為に合理的関連性があり、③その制限により得られる利益が失われる利益より大きいときは合憲という論理を持ち出しました。すなわち、行政の中立的運営という目的のために、公務の政治的中立性を損なうおそれのある政治活動を禁止することは合理的関連性があり、公務の中立性を維持するという国民全体の利益の価値が高いので、公務員の政治活動の禁止は違憲ではないというものです。
この考え方が「猿払基準」と言われ、国民の権利を守ろうとする裁判官を呪縛しているのです。
世界は自由が原則だ
国際水準からみて、日本の人権状況は大きく遅れています。
欧米の先進諸国では、国家公務員の政治活動は原則自由です。一部に規制があっても職務時間外にまで及ぶことはなく、まして違反に対し刑事罰を科す国はありません。
08年、国連の自由権規約委員会は、日本政府に対して、国家公務員法で言論活動が規制されている状況に対し、過度な制約をしているいかなる非合理な法律上の制約をも廃止すべき、と勧告を出しました。日本の人権保障のレベルが低いこと、政治的な言論活動の自由が侵害されている実態を、国際世論はすでに見通しているのです。
堀越事件の二審で無罪判決を出した東京高裁の中山隆夫裁判長は、日本の国家公務員に対する政治活動の禁止は、ヨーロッパ諸国と比べて広範だと指摘したうえで、様々な分野でグローバル化が進むなか、「世界標準」という視点から見直すべきと示唆しました。人権保障を世界水準にしようという芽生えが、司法のなかにもあります。これを伸ばし花開かせることが、いま必要です。
自由な意見表明こそ
最高裁の猿払基準は、表現の自由を争う様々な事件で「悪用」されています。
公職選挙法は、選挙期間中に有権者に戸別訪問し、投票を依頼することを禁止しています。この法律が、表現の自由を定めた憲法に違反するとして、数多くの裁判がたたかわれてきました。しかし最高裁は、買収の温床になるなどの根拠のない理由をつけ、「公共の福祉」を口実に選挙活動の制限も認められるという判断を示し、下級裁判所もそれにしたがっていました。
幼稚園の保育士などが戸別訪問をしたとして起訴された76年の矢田・植田事件では、一、二審で、公選法は違憲と判断して無罪判決を出しましたが、最高裁は猿払判決の基準を持ち出し破棄しました。つまり、「公正な選挙を行うという正当な目的のために、買収などのおそれがある戸別訪問を禁止することは意義があり、戸別訪問の禁止は、表現の自由の一部の制約にすぎず、選挙の公正さを守るという公共の利益の価値が高いから違憲ではない」という、表現の自由を軽視する判断です。
また群馬県の高校で、生徒会誌に掲載された教諭の記事が政治的でふさわしくないとして切り取られて生徒に配布された事件でも、最高裁は04年に猿払判決を例示して、切り取りを指示した校長の職務命令の違法性を認めませんでした。
国公法2事件で最高裁が違憲無罪判決を出し、猿払基準を覆す判断をすれば、国民の言論・表現の自由を確立する新たな展望を生み出すことができます。
救援新聞 2011年2月25日号